2025.10.23
「テストのための勉強」と「未来のための勉強」
「テストのための勉強」と「未来のための勉強」
――鈴木の視点から語られる物語 前半
教室の窓から差し込む夕陽に、黒板の文字がかすかに赤く染まっていた。放課後の空気は部活の喧騒も過ぎ去り、静けさがじっとりと教室に張りついている。ほとんどの生徒が帰ったあと、残っているのは、俺と——佐藤だけだ。
「またテストかよ……」
誰に聞かせるでもなくつぶやいた声は、自分で思った以上に弱々しかった。模試の範囲表が机の上に広げられている。国語、数学、英語、社会、理科……その文字を見ただけで、胃の奥に重い石が沈み込むような感覚になる。
テストで点が取れなければ、親に何か言われる。先生からも視線を向けられる。成績表は家に帰ればテーブルの上に置かれ、父は眉を動かさずに数字を眺める。何も言わないその沈黙が、俺を追い詰める。
だから今日も、机に向かう。イヤでも、眠くても。
俺がそんな気持ちでシャーペンを動かしている横で、佐藤は黙々と参考書に目を落としていた。ページをめくるたびに、小さく「へえ……」と感心しているような、独り言のような声を漏らす。俺とは違って、ため息ではなく、納得の息だ。
「おまえ、疲れないのか?」
思わず声をかけた。教室に自分たち以外誰もいないと、余計なことまで口からこぼれる。
佐藤は手を止め、俺のほうを向くと首をかしげた。
「疲れるよ。そりゃあ……でも、なんか面白くないか?わからなかったところが、ああ、こういう意味だったんだって繋がる瞬間」
面白い? この数学の公式や歴史の年号が?
俺は笑いそうになったが、その笑いはすぐ喉の奥で消えた。冗談じゃない。覚えても、忘れることのほうが多いのに。次の日になれば抜け落ちてるし、公式の意味なんて考える余裕はない。点さえ取れればいいんだ。いい点数さえ取れば、文句は言われない。
「……おまえ、なんでそんなに勉強できるんだよ」
そう聞くと、佐藤は少しだけ視線を窓の外に投げ、夕陽の光を眺めた。そして静かに答えた。
「将来、医療の仕事に就きたいんだよ。人の役に立てることをしたくて。たとえば……怪我した人を助けたり、病気で苦しんでる人を救ったり。そんな仕事に就くには、今の勉強が必要なんだ」
俺は何も言えなかった。
医療? 人を助ける?
そんなの、テレビドラマの中の話みたいだ。けど、佐藤は冗談ではなく、本気でそう考えている顔をしていた。問いかけるようでもなく、押しつけるわけでもなく、当たり前のこととして語っていた。
俺には、そんな「未来へ繋がる言葉」はひとつも持っていなかった。
翌週。テストが返ってきた。
俺はそこそこの点数を取った。平均よりずっと上だ。先生も親も安心する数字だ。だけど、答案用紙を見ても嬉しさより先に「次もこれ以上を取らなきゃ」という焦りが来る。自分で自分の首を絞めるみたいに。
一方、佐藤は——俺と同じくらいの点数だった。なのに、その顔に疲労はあるものの、どこか晴れやかな表情があった。
不思議だった。
点数は同じ。努力だって、きっと同じくらい。なのに、なんでだ。どうしてあいつは、そんな顔ができるんだ。
ある放課後、俺は佐藤に聞いた。
「なあ……勉強やってて、つらくならないのか?」
佐藤は消しゴムを転がしながら、少しだけ笑った。
「つらいよ。眠いし、わからないところばっかりだし。けどさ……」
そこで一度、言葉を区切った。
「もし、未来で誰かが困ってて、その人を助けられる自分でいたいなら、今の時間って、きっと無駄じゃないんだと思う」
その言葉は、軽く聞こえたけど、俺の心には重く沈んでいった。
俺が勉強する理由は、怒られないため、失敗しないためだった。
佐藤が勉強する理由は、人を救うため、未来をつくるためだった。
それが、たったひとつの違い。
だけど、その小さな違いが、俺の中で何かを揺らした。
冬。受験が近づき、教室の空気は張り詰めていた。
俺は焦りばかり感じていた。問題集を開けば開くほど、不安は増えていく。ページをめくるたび、「どうしよう」が胸に広がる。
佐藤はと言えば、静かにノートを取り、質問し、理解しようとしていた。
確かに苦しそうな姿も見た。眠そうに目をこすり、頭を抱えている日もあった。だけどその目は、希望の光を完全に失うことはなかった。
夜遅く、塾から帰る坂道で、佐藤が言った。
「鈴木。おまえは、なんで勉強してる?」
答えられなかった。
ずっと考えてきたはずなのに。
答えなんて、すぐ出るはずだったのに。
「わかんねぇよ。怒られたくないから。落ちたくないから……それじゃ、ダメなのかよ」
声が震えていた。
佐藤は少し黙り、それから優しく言った。
「ダメじゃないと思うよ。俺だって不安がゼロなわけじゃない。ただ……俺は“逃げたくないから”やってるんじゃなくて、“たどり着きたい場所があるから”やってるだけ」
その瞬間、胸の奥で何かがカチリと音を立てた気がした。
俺と佐藤の差は、努力の量じゃない。
覚える速さでも、点数でもない。
“目指してる景色”そのものが、違っていたんだ。
冬の空は、星がやけにきれいだった。
その光を見上げながら、俺は心の中で小さな問いを投げた。
――俺は何のために、机に向かっているんだろう。
その問いに答えが出るのは、もう少し先の話だ。
けれど、このとき生まれた小さな揺らぎは、静かに、確実に俺の進む道を変え始めていた。
(※後半へ続く)




























